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何故、明延鉱山は選鉱場が神子畑にあるのか


明延を訪れられた皆さまから、
 「何故、明延鉱山は選鉱場が神子畑にあるのですか。」
というお尋ねが多く寄せられます。
 この疑問を持たれるのは、もっともな事だと思います。
と申しますのは、明延(あけのべ)と神子畑(みこばた)は大きな山を隔て、
直線距離にして約6キロメートル離れています。
この間の輸送手段として、線路が敷設され、鉱車が走行しておりました。
何故、もっと近くに選鉱場を造らなかったのでしょうか。

 長くなりますが、当時の状況を振り返ってみましょう。

明延と神子畑を結ぶ明神(めいしん)電車  昭和49年 持元撮影
【太平明延 第12號 昭和26年12月1日発行から】

明延鑛山の選鑛について
神子畑 選鉱課 技師 渡辺茂男

 明延(あけのべ)鉱山開坑の歴史は古いが、神子畑(みこばた)に選鉱場が出来たのは、極く最近のことである。
 それまでは煙山(けむりやま)、大同(だいどう)、明盛(めいせい)、大黒(だいこく)、二本松(にほんまつ)、 百間(ひゃっけん)等の各採鉱坑口に、簡単な選別場があって、そこで選別を行い、 特上鉱、上鉱、一二等鉱等に選別して、直島製煉所に送ったに過ぎなかったが、 明治の末期より大正の初期にかけて明延鉱山は金、銀、銅山として、u々好況を示すと共に、 その鉱石中に狼鉄鉱並に錫石の存在することが判明して以来、更に隆盛となり、 採掘鉱量の増加と相まって選鉱場が必要となった。
 依って大仙(だいせん)坑附近に手選場を、神子畑に機械選鉱場を建設することゝなった。
 当時神子畑は従来稼行しておった神子畑鉱山が、頽勢(たいせい)にあったとはいえ、古い鉱山地帯であり、 製煉が生野鉱山にあった関係上、神子畑は運搬の要衝の地でもあったので、機械選鉱場の建設地として選ばれたわけである。
 かようなわけで、大正八年大仙坑口附近に一日一三〇トン処理の手選場が完成すると、同時に神子畑にも機械選鉱地が完成した。
 設備の点では、現在の設備と比較すれば、極めて幼稚なものだったようだが、兎に角明延鉱山としては、 はじめて選鉱設備らしいものが出来たわけである。
 当時の大仙手選場にては、捨石と上鉱を抽出し、その片刄(へんじん)と上鉱は鉄索で神子畑に送られ、 上鉱は生野製煉に直送し、片刄は神子畑選鉱場で処理した。
 (以下省略)

中尾注:執筆者名、渡辺茂男は誤りで、正しくは渡辺七五郎様です。

いかがでしょうか。
原文は縦書き、三段組で、そのまま横書きに直し、ご紹介しています。
ただし、地名と、私自身が読みにくいと思う部分には振り仮名をつけました。その他はそのママです。
実はここでご紹介したものとは、別の理由を挙げている記録もあります。長くなりますから、要約してみますと、
明延の下流約1キロメートルの場所に選鉱場を建設する計画があったが、下流住民が鉱害を恐れ反対したので、
その予定地への建設は見送った。というものです。
いずれにしても、様々な要素を考慮に入れ建設地を決めることは、今も昔も変わりありません。
ここでご紹介したこと以外の理由もあったかも知れないとも考えられます。
日本を支えてきた、国内近代鉱山の忘れ去られる事の多さに愕然とします。
お問合せ:あけのべ自然学校  電話079−668−0258

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Create:2006.10.28 Update:2006.11.05