半田銀山羽州街道と女郎橋跡

Handa Mine <半田銀山>

1998年取材・1999年1月17日WEB化

福島県伊達郡にかつて栄えた半田銀山は、「石見銀山」」(島根県)、「生野銀山」(兵庫県)とならんで日本三大銀山に数えられる、国内屈指の銀山であった。大同年間に採掘が始まったと伝えられるが、本格的に操業を始めたのは慶長3年(1598)という。
銀山といっても銀ばかり掘っていたわけではなく、金(Au)、鉛(Pb)、亜鉛(Zn)なども生産していた。
閉山が比較的早い時期であった(1950年;昭和25年)ため、大規模な鉱山の割に知名度が低いのは残念なことである。
なお、ハンダ付けの「はんだ」(錫と鉛の合金)が、この半田銀山に由来するという説もあるが、定かではない。

案内看板坑内

■鉱山の現況

半田山女郎橋
(写真左)半田山。下部の白っぽいところは大規模な崖崩れの跡であろう。明治末期に引き続いて発生した崩壊は半田銀山の坑口を埋没させ、経営を圧迫したという。
(写真右)「女郎橋」という名の橋脚跡。かつてここを、ズリをのせた車が行き来していたという。後方に見えるのが東北自動車道で、向こう側にはズリ山が見える。この橋の下にはその昔、「羽州街道」が通っていた。(見出しの写真は、羽州街道から女郎橋を見上げた図である。)

鉱山の様子鉱山の様子
(写真左)半田自然公園にある二つの駐車場の内、管理棟の隣の駐車場から"銀山遊歩道"を下っていくと、右手に「中鋪坑」がある。
(写真右)国見町側には「二階平坑口」が残存しているが、坑口上部40cmほど残して埋没してしまっている。

■大正時代の半田銀山

銀山事務所
(写真左)大正初期の半田銀山事務所と精錬施設  (写真左)採鉱事務所(奥の建物)と鉱石運搬軌道 (桑折町史叢書第7集・半田銀山調査報告書より)

■明治天皇行幸の碑

行幸の碑行幸碑案内板
明治9年、奥州巡幸の際に半田銀山の視察に御臨幸されたという。当時の新興工業国日本にとって、有望な鉱山への力の入れようがわかる。

■旧伊達郡役場

伊達郡役場役場説明板

明治16年(1883)に、旧伊達郡の郡役場として建築され、大正15年(1926)まで使用された由緒ある建物である。
この中に、半田銀山の資料や鉱石が展示されているので、桑折町を訪ねたらぜひ見学してみたい施設である。

■鉱山資料展示

資料展示−1資料展示−2

資料展示−3資料展示−4
展示室内には半田銀山の坑内写真などが掲示されており、研究には便利である。
また、隣の美術館では「半田銀山の歴史」という60ページほどの冊子が販売されている。

■鉱物展示

鉱石展示金銀鉱石
半田銀山で産出した鉱石や、各地有名鉱山の鉱石が展示されている。金銀鉱石は黄銅鉱、黄鉄鉱が共存している場合が多いのだが、説明なしに展示されると「金ぴか」の部分が金鉱石だと錯覚してしまうかもしれない。"金・銀"の部分は通常、地味な灰色・灰青色をしているのである。


■半田銀山略年表

807(大同2)年 半田銀山が発見されたと伝えられる。(信憑性は低い)
1598(慶長3)年 米沢藩上杉景勝、本格的な開発を行う。慶長年間から万治年中は鉱業隆盛を極める。
1786(天明6)年 鉱量枯渇し、新鉱脈を発見できず、幕府によって閉山を命じられる。
1803(享和3)年 幕府により開坑が認められ、再開発着手。7年後の1810年に良鉱を発見する。
1876(明治9)年 フランス人技師コアニー(コアニェ)を迎え、新技術を採用した精錬所建設など、鉱山近代化が開始される。
1905(明治38年) 青化法による精錬が始まる。このころから、半田山崩壊による被害が続出し、経営を圧迫した。
1919(大正8)年 精錬事業を中止し、鉱石売却に切り替わる。
1950(昭和25)年 鉱量枯渇、品位低下により採算が取れなくなり、休山となる。以降、探鉱が続けられたが、再興することはなかった。
※「半田銀山の歴史」−(財)桑折町文化記念館 編集・発行− を参考にさせていただきました。

■周辺地図と交通

周辺地図 交通:JR東北線 桑折(こおり)駅下車、徒歩約30分 または 東北道国見I.C.より南へ約6km


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