福島県伊達郡にかつて栄えた半田銀山は、「石見銀山」」(島根県)、「生野銀山」(兵庫県)とならんで日本三大銀山に数えられる、国内屈指の銀山であった。大同年間に採掘が始まったと伝えられるが、本格的に操業を始めたのは慶長3年(1598)という。
銀山といっても銀ばかり掘っていたわけではなく、金(Au)、鉛(Pb)、亜鉛(Zn)なども生産していた。
閉山が比較的早い時期であった(1950年;昭和25年)ため、大規模な鉱山の割に知名度が低いのは残念なことである。
なお、ハンダ付けの「はんだ」(錫と鉛の合金)が、この半田銀山に由来するという説もあるが、定かではない。
(写真左)半田自然公園にある二つの駐車場の内、管理棟の隣の駐車場から"銀山遊歩道"を下っていくと、右手に「中鋪坑」がある。
(写真右)国見町側には「二階平坑口」が残存しているが、坑口上部40cmほど残して埋没してしまっている。
明治16年(1883)に、旧伊達郡の郡役場として建築され、大正15年(1926)まで使用された由緒ある建物である。
この中に、半田銀山の資料や鉱石が展示されているので、桑折町を訪ねたらぜひ見学してみたい施設である。
展示室内には半田銀山の坑内写真などが掲示されており、研究には便利である。
また、隣の美術館では「半田銀山の歴史」という60ページほどの冊子が販売されている。
807(大同2)年 | 半田銀山が発見されたと伝えられる。(信憑性は低い) |
1598(慶長3)年 | 米沢藩上杉景勝、本格的な開発を行う。慶長年間から万治年中は鉱業隆盛を極める。 |
1786(天明6)年 | 鉱量枯渇し、新鉱脈を発見できず、幕府によって閉山を命じられる。 |
1803(享和3)年 | 幕府により開坑が認められ、再開発着手。7年後の1810年に良鉱を発見する。 |
1876(明治9)年 | フランス人技師コアニー(コアニェ)を迎え、新技術を採用した精錬所建設など、鉱山近代化が開始される。 |
1905(明治38年) | 青化法による精錬が始まる。このころから、半田山崩壊による被害が続出し、経営を圧迫した。 |
1919(大正8)年 | 精錬事業を中止し、鉱石売却に切り替わる。 |
1950(昭和25)年 | 鉱量枯渇、品位低下により採算が取れなくなり、休山となる。以降、探鉱が続けられたが、再興することはなかった。 |
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